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『ぼくの人生はおもしろい』 永井祐 ・店先にホウ酸団子がうずたかく積まれています 夏が来ました ・会わなくても元気だったらいいけどな 水たまり雨粒でいそがしい ・ゴミ袋から肉がはみ出ているけれどぼくの望みは駅に着くこと ・灰色のズボンがほしい安すぎず高すぎもせず細身のズボン ・櫓(やぐら)から落ちて死ぬなんて変な映画だったと寝る時ふたたび思う ・コーヒーショップの2階はひろく真っ暗な窓の向こうに駅の光 ・おじさんは西友よりずっと小さくて裏口に自転車をとめている ・新日曜美術館 美の巨人たち とりためたビデオを貸してくれる ・月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね ・ふつうよりおいしかったしおしゃべりもう上手くいったしコンクリを撮る ・アスファルトの感じがよくて撮ってみる もう一度 つま先を入れてみる ・空気中の微生物を食べてるような今夜の散歩 ずっとつづけ ・ぼくの人生はおもしろい 18時半から1時間のお花見 ・喫茶店まだやっている 木金土 明日あさって まだだいじょうぶ ・去年の花見のこと覚えてるスニーカーの土の踏み心地を覚えてる ・友達に映画をおごるおごられる 道に小さく竜巻がある ・君に会いたい君に会いたい 雪の道 聖書はいくらぐらいだろうか ・CDが回ると音楽が鳴って去年のメールをさがすわたしは 永井祐さんの作品『ぼくの人生はおもしろい』30首より ★ ミラン・クンデラ原作の『存在の耐えられない軽さ』 という映画があったけれど、 この作品の主人公を包む日常の情景もまた、 明日を約束されることのない、不確かで、 その日、その時間、その場所が、 いつまで存在することを保証する何ものもない世界だ。 しかし、主人公の目は小さなことにも面白さや喜びを見つける。 「会わなくても元気だったらいいけどな 水たまり雨粒でいそがしい」 世界中の粒子が、彼の友だちなのだ。 「喫茶店まだやっている 木金土 明日あさって まだだいじょうぶ」 というような、明日にも消えるかもしれないものに囲まれながら、 それも、それが普通になってしまった世界に生きている。 確実なのは良くて、明日、あさって、くらいまで。 気に入ったお店も、気に入ったアイテムも、いつ奪われるとも知れない、 次々と消滅していった愛するものたち。 昨日ここにあったものは、今日もうここに無いことも、 今日あるものが明日、あさってくらいまでしか大丈夫そうに見えないことも、 愛着を持ったものが、明日には忽然と世界から消えることも全て見馴れた風景で。 『方丈記』の現代版のような世界が常態になった時代に生まれ育った世代。 しかし、不安定な、そんな紙風船のような日常を、 主人公は、嘆いたりすることなく、 目の前のコンクリやアスフルトを撮り溜めたりしている。 「おじさんは西友よりずっと小さくて裏口に自転車をとめている」 「新日曜美術館 美の巨人たち とりためたビデオを貸してくれる」 「櫓(やぐら)から落ちて死ぬなんて変な映画だったと寝る時ふたたび思う」 『ニュー・シネマ・パラダイス』のトトとアルフレードのように、ビデオを観たり、 短いカットを憶えていたり、どこか、カットが映像的で、遠近感があり奥行きがある。 フェリーニの『8 1/2』や、ヴィスコンティの『ベニスに死す』のアダージョが 聴こえる風景でもあり、安っぽいB級映画のようでもあり。 極限まで追い込まれている状況かもしれないのに、 その白っぽい微細な美を飽きずに楽しんでいる。 彼にとっては、どこにも極限はないかのよう。 小さな小鳥が、猫が、羽根を休め身づくろいをする場所を見出すように、 いつでもどこでも自分がいる場所が、この世のサンクチュアリ。 状況の方で、どんなに追い詰めようとしても、その真っ暗な窓の向こうに 別の明りを見つけてしまう。空間と時間の位相が奇妙に出会う。 初めから、人と同じものを求めていないから、 どこでも、どんな状況でも、必ず、面白いことはあるし、 好きなものは見つかるし、楽しいこともある。 また、ステイタスシンボルを求める気もなく、 ほんとうに好きなものしか、欲しくもないのだ。 賢明な選択。不必要で意味の無い欲望を持たない。 大きな負荷も背負わない。 大袈裟な目立つ存在にならないよう、微生物のように生きているから 大丈夫なのだ。 前世代的生き方への静かなプロテスト。 人から見た目に左右されず、自分の見方で世界を見ている。 どこにでもあるもの、ありふれたもの、何でもないもののさり気なさが めまぐるしく変わる不安定な世界の中の安心の拠点であり、つながり方なのだ。 「月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね」 引いてゆく距離感がそのまま二字空けに。 「ふつうよりおいしかったしおしゃべりもう上手くいったしコンクリを撮る」 「アスファルトの感じがよくて撮ってみる もう一度 つま先を入れてみる」 以前の『スイカ』の中の一首、 「わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる」 が、ここに響いて来る。 「もう一度 つま先を入れてみる」 このフレーズで、主人公が、「アスファルト」や、「コンクリ」を、 物、というより、生物のように、人体の一部に分け入るように扱っていることを感じる。 「去年の花見のこと覚えてるスニーカーの土の踏み心地を覚えてる」 ささやかな満足、ささやかな幸福、我が身に感じるリアルな感触。 丁寧に優しいタッチで触り、踏みしめている人生。 「君に会いたい君に会いたい 雪の道 聖書はいくらぐらいだろうか」 初めての激しい希求の言葉、リフレイン。 突然吹き上げてくるような愛の希求。 恋人の性別はわからない。基督かもしれない。 「CDが回ると音楽が鳴って去年のメールをさがすわたしは」 もう恋人死んでるの? ★ ところで、ここからは妄想の類に入るけれど、 「ゴミ袋から肉がはみ出ているけれどぼくの望みは駅に着くこと」 こういう歌、 見ようによっては、恐ろしい歌にも変化する。 まさかと思わせたり、何の肉だろうと思わせる。 ミステリーっぽく読めば、 ゴミ袋からはみ出している肉は恐ろしい。 それに気づきながら駅へ着くことを優先する主人公も。 重大なことも、小さなことも、気分次第で、等価値で、 居心地の良さを大事に、物事を少しずつずらしながら、 多面的にに並列している。 ゴミ袋からはみ出た肉が、この作品の中で、 私に、唯一不気味に感じられるのは、 この植物的な感じのする主人公が包丁で切ったり叩いたりした肉片が ゴミ袋からはみ出ているからで、 多分、身体が微生物融合体のように上手く消えていないからなのだ。 肉のままではみ出ている物体。鉱物でも植物でもない動物の肉片。 人間であれば、細身のズボンに入らないような肉質の。 といっても、普通の生ゴミの肉なんでしょうけど。 ★ ところで、 「店先にホウ酸団子がうずたかく積まれています 夏が来ました」 「ホウ酸団子」 ゴキブリホイホイとかコックローチ、コンバットなどではなく、 実際に「ホウ酸団子」というものが、店先にうず高く積まれている光景を、 私自身は見たことがないのだけれど、 それほど必要にも思われないし。 どこか薬局とか、 地方のよろず屋さん的雑貨屋さんで、 置いてあるところがあるのだろうか。 致死量にもなることを考えると、 雑貨屋さんでは売れないような気がする。 それは、どちらでもいいとして、 夏の到来を、 このような形で告げるのは、変わっていて、印象に残る。 ホウ酸団子が夏を告げる導入。 ゴキブリを殺す夏。 しかし、ゴキブリってまだ、 いるのだろうか。 いるにはいる、程度だと思うけど、 かき氷や金魚や蝉や浮袋や朝顔や入道雲と同じくらい夏なのかなぁ。。 |
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